偏愛の理由
長女は東京での新生活が始まり、私の生活も少しずつ落ち着こうとしています。
娘には、私、ちょっとした偏愛なので、18歳で巣立つ事にかなりの労力を要しました。気力、そして体力。娘への気持ちを少しずつ落ち着けていくのは、思ったより大変です。部屋の隅々に残る残像に、今も不意に涙がこぼれ落ちるのですから、親とはこんなに辛いものかと。きっと、単身赴任、死別、離婚、失恋等、同じような気持ちの方は沢山いらっしゃるんだろうなと。ケースは違っても光と影と同様に、出会いがあれば別れがあります。それを一つ一つ受け止めて成長していくのが、人間として生まれた理由の一つではないのかと思います。
私の偏愛はどうやって生まれたのだろうと考えたんですけれど、環境が生み出したのではないかと思います。私の場合は、親や夫に全く頼れなかったという事。母は私が20代の頃から調子が悪くなり、今も心の病を患ったまま、長い冬を迎えています。母にとっては冬ではなく、穏やかな春かもしれませんけどね。会話が成立しないので、私が今どんな活動をしてるのかも、わかっていません。母に頼れる人を見ては羨んでいましたが、求めても得られないものの一つという事にして、母に対する甘えは捨てました。いるのに、いない。そんなところでしょうか。父は自分の病気があるにも関わらず、母の食事から生活すべてをみていて、やはり大変です。夫はほとんど家にいない状態だったので、私は一人でなんとかしなければと、ベクトルは自然と娘たちに向きました。孤独に子育てしている人が沢山いらっしゃるでしょう。私は気持ちがとてもよくわかります。頼らない育児をしてきましたから。偏愛には理由がある。
さて、一つの執着ともさよならです。愛の裏返しなんですけど、これが一番難しくって。少しずつ少しずつ、心を和らげていくレッスン。子はパタパタ飛んでいきました。長い長い地球の歴史の中で、生きとし生けるもの全てが、こうやって命の連鎖を繰り返し繋がってきたのだと思うと、実に神秘的だなと思います。
今日は庭の掃除をしていたら、人工芝の間からすみれが咲いていたんです。アスファルトに咲く花ではありませんが、すみれも生命力が強い花だそうですね。まさに、東京で頑張っている娘のようだなと思いました。紫のすみれの花言葉は「愛」だそうです。愛してるって、何度言っても足りないわ・・・